永平寺受戒会(初日・その2)

永平寺法堂(はっとう)

初日の13時半、法堂(はっとう)での「啓建歎佛」という礼拝法要から授戒会がスタートした。持参した毛布を座布団がわりに、私がお経本を畳の上に置いていると、先ほどの千葉のベテランの方が私の横に来て、「お経本を床に直接置いてはいけないよ」と注意して下さった。そのような基本的なことも知らなかった私は、心から有難いと感じた。やがて鐘が打ち鳴らされ、僧侶らが次々と入場し、その数100名あまりにもなった。初めてなので興味津々である。読経が始まり、私が唯一暗記している般若心経もあったので一生懸命唱えた。この「歎佛」と名のつく法要の最後には「散華(さんげ)」と呼ばれる綺麗なカードが何枚か撒かれる。何のことやら意味が分からない私の膝元にも2、3枚のお散華が落ちてきた。私が「?」のそぶりを見せていると、お隣の別のベテランの方が態度で「もらっていいんだよ」と教えてくれた。その方に1枚を渡し、私も1枚を頂いた。寺によっていろいろな絵柄があり、仏壇に飾ったり、財布の中に入れたりすると良いそうである。何だかカード集めみたいで面白い。若い僧侶の方に聞いてみたが、いわゆるコンプリートというのはないそうである。

14時半から説戒が始まった。説戒師を囲んで車座になり、講義を聴くのである。講義といっても学問ではなく、法話に近い。レジュメも特に配られない。「教授戒文」という十六条の仏戒が書かれた小冊子にそって、午前午後に1回づつ、合計11回にわたって内容の説明を受けるのである。道元禅師のお言葉など難しい話もあったが、例えや事例を交えて分かりやすい話もあった。特に印象に残ったのは、「ただ我が身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに従いもて行くとき、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる」という正法眼蔵からの引用の解説である。「私」というものを忘れたら、私が生きているのではなく、大いなる命が私を生かしていること、同時に他人も猫も鳥も花も石も生かしていることに気づき、山川草木すべての命が光り始める、そのように自分に執着しなくなると後悔も心配もなくなり、生死も関係なくなる、というお話であった。他にも、お釈迦様は仏教を作ったのではなく気づいたのである、お釈迦様とあなたは一つである、だから誰でも気づくことはできる、悟ることもできるというお話もあった。私がこの授戒会に参加した目的は悟りや禅の精神に近づくためであり、ここに来てよかったと心底思えた瞬間であった。

説戒が終わると次は入浴である。本来、浴室と東司(トイレ)は三黙道場(私語禁止の修行)に数えられるが、授戒会では食事中だけが私語禁止で、入浴とトイレについては修行の場とはされておらず自由であった。もっとも、当然ながら、永平寺の脱衣場にドライヤーや整髪料はない。浴室にもせっけんしかない。皆さんシャンプーや整髪料、シェーバーやドライヤーを持参していた。電源は脱衣場の扇風機のコンセントから取っていた。ちなみに、ほとんどの時間を過ごす法堂(はっとう)にも僅かにコンセントがある。見えないところにあるがベテランの方は場所を知っていた。私は知らなかったので、スマホの電池切れを避けるため一週間分の充電池と乾電池を持ってきていた。なお、お湯は温泉質ではないが、とにかく湯加減が絶妙で気持ちがよい。時間を忘れのぼせてしまうことたびたびであった。

Follow me!