悟りとは「空」の体感である(仮説1)

鶏が先か卵が先か、という話がある。卵がないと鶏には育たないし、逆に鶏がいないと卵は生まれない。では、ある鶏の先祖をずっと、その卵を産んだ親鶏、その卵を産んだ親鶏と遡っていくと、この世に最初に存在したのは鶏の方なのか、それとも卵の方なのか、そして、それは一体どこから来たのか、という話だ。卵であれ親鶏であれ、手品のハトのように、いきなりこの世に出現したとは思えない。私たち人間は、「無から有は生まれない」ということを直観的に理解している。これと同じことが、この世の中に存在するもの全てにいえる。人類はサルから進化した、サルは哺乳類で、哺乳類は原始生物から進化した、原始生物は母なる海で有機物の組み合わせからある日偶然に生まれた。その確率は、バラバラに分解して海に投げ入れた時計の部品が潮と波の力だけで元通りに組み上がるほどの奇跡的確率だそうだ。その海にしても、地球が冷えて雨が降ることでできた。その水や岩石は一体どこから来たのか。分子や原子として宇宙空間に漂っていたのだろうが、ではその分子や原子を構成する素粒子は一体どこからやって来たのか。最近の研究では、宇宙は約150億年前にビッグバンによって誕生したとされているが、ビッグバンを起こすにも何らかの物質が必要だから、その物質は何もない無の空間から突然発生したのか?

どうやって最初の有が無から生まれたのかという、この人類最大の難問は、長い間、全知全能の主が創造したと答えるしかない、とされてきたであろう。神の存在を認めるほかなかったと思われる。しかし、2500年前のお釈迦様は既に、このような絶対的な存在を否定し、すべての物質は状態としてのみ存在し、有と無との間に本質的な違いはないこと、すなわち「空」に気付いていた。最新の量子物理学では、素粒子はエネルギーそのものであり、有でもあるし無でもあるという超ひも理論によって、無から有が生まれることもあり得るそうだ。お釈迦様が2500年前に気付いたことの正しさを最新科学が証明したことになろう。素粒子のレベルでは人間と宇宙の間に何の違いもなく、人間が宇宙の一部であることは疑う余地がない。

この世があり、わたしが生きていること。それは種も仕掛けもない手品であり、限りなくゼロに近い確率で偶然に生じた奇跡。しかも、それはある一瞬の原因(因)と条件(縁)が幾重にも重なって生じた必然的結果である。その原因と条件は時々刻々と変化する流動的なものだが、ある一瞬の因と縁だけを捉えれば、その結果が生じることは必然になる。わたし自身も、両親のそのまた両親と遡れば、10代前は1000人以上、20代前は100万人以上の先祖がいることになる。ほんの僅かでも条件が狂い、そのうち1人でも欠けていれば、わたしは生まれていない。これが奇跡でなくて何だろうか?

この宇宙についても同じだ。無数の因と縁が時々刻々と変化した結果として、現在の世界が存在し、わたし自身が存在しているだ。この偶然でもあり必然でもある奇跡的な存在。それは限りなくゼロに等しい奇跡的確率によって生じたもの。ここまでくると、この世は有るともいえるし、無いともいえる、「夢幻の如くなり」というほかない。万物は因と縁によって状態としてのみ存在し、固定的な実体としては存在していない。それが「色即是空、空即是色」でいうところの「空」であり、空の中に有すなわち「色」が充満しているのであって、「本来無一物、無一物中無尽蔵」と同義であろう。このことを頭で理解するのではなく体感することが「悟り」ではないだろうか。

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