悟りとは何か(序論)

悟り

お釈迦様が開かれた「悟り」とは何であろうか。古来、在家・出家を問わず、この境地を求めて多くの先人達が修行してきた。私は「悟り」に興味を持ち、生ある間に到達したいと思い、菩提心(悟りを求める心)を発心したが、まだまだ道半ば、というより最初の一歩を踏み出したに過ぎない。

悟りの瞬間については、ものの見え方が全く変わり、タガが外れたような究極の自由を感じ、とても幸福な気分に包まれる、ということで共通しているようだ。しかも「悟り」は求めて得られるものではなく、眠ろうとすればするほど眠れなくなる睡眠と同じで、悟ろうとすればするほど遠ざかるものとのこと。条件を整えて、わが身をまかせ、悟りの方からやってくるのを待つしかないもののようだ(仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて)。まずは正伝の仏法の教えを正確に理解しようと、あれこれと情報収集しているが、「悟り」とは体感であり、言葉で定義できるものではなく(不立文字)、教えることもできず(教外別伝)、坐禅等の実践を通じて体得するしかないと菩提寺の住職はいう。

ただ私は、教えの学び(知得、理解)と禅の実践体験(体得、体解)とは車の両輪であり、いずれも悟りへの道には不可欠であると考えている。職業病か、どうしても私は頭で理解しようとしてしまい、実践に欠けるきらいはあるが、現在の到達点として、私が理解する「悟り」とは何かについて、3つの仮説を立ててみた。

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