五蘊皆空(ごおんかいくう)

ドーナツの「穴」は穴でない部分に依存して実在する

四法印の次は、「空」(くう)の教えについて考える。般若心経に有名な「色即是空」(しきそくぜくう)の一説にいう「空」である。もちろん、空虚(空っぽ、虚しい)という意味ではない。

般若心経は、何でも見抜ける観音菩薩さまが修行をして「五蘊」は皆「空」であると観察した、という語りで始まる。「五蘊」(ごおん)とは仏教でいう人間の構成要素である「色・受・想・行・識」の5つをいい、このうち「色」(しき)とは「目に見えるもの」=物質(モノ)という意味である。人でいえば肉体にあたるのが「色」であり、精神作用にあたる「受・想・行・識」と区別される。すなわち、「五蘊皆空」とは物質も精神もすべて「空」である、という意味になる。

従って、「色即是空」を直訳すると「モノは空である」ということになるが、それはモノ=空という趣旨 ではない。これをイコールと解釈してしまうと、 逆の「空即是色」は「空はモノである」という偽命題になってしまう。 上述のとおり、物質(モノ)だけでなく精神作用も含めたすべての世界が「空」であるからである(受想行識亦復如是)。スマナサーラ長老が「色は空であっても、空は色ではない」というのはその趣旨(空は色に限らない)である。

「色即是空」の意味は「モノは空という存在の仕方をしている」(モノは空という状態である)、と解釈すべきなのである。「空」は名詞ではなく形容詞なのだ。
逆の「空即是色」についても、主語はあくまで「色」であり、同じ内容を倒置して繰り返しているに過ぎない。同じ内容を繰り返しているのは、「色即是空」の前文が「色不異空」「空不異色」であることからも明らかであろう。

では、「空」とは一体どういう状態をいうのか。ここで三段論法。
 大前提  すべてのモノゴトは無常であり、かつ非我である(諸行無常・諸法非我)。
 小前提  すべてのモノゴトは「空」という状態であると観察される(諸法空相)。
 結論   「空」とは非我であり、かつ無常である状態である。

このように「空」とは、実体ではない(非我である)がゆえに変化して止まない(無常である)ものの実在の仕方である、と定義できる。では、どうやって非我・無常であるものが実在しているのかというと、あらゆる要素が相互に依存すること(相依性)で実在しているとするのがナーガールジュナ(龍樹)であり、これが「空」についての大乗仏教の公式見解である。

なお、モノの状態としての「有」と「無」の上位概念が「空」であるという向きもあるが、「上位概念」とは複数の異なる概念に共通の性質を抽出した概念をいうから、「有」と「無」に共通の性質が何であるのかを説明しなければ「空」の説明にはならない。その抽出は不可能であろう。
「有」がなければ「無」はなく、「無」がなければ「有」はない。すなわち「有」は「無」に依存し、「無」は「有」に依存していることになる。それが相依性であり、すなわち「空」であると竜樹ならいうであろう。般若心経にいう「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」もすべてこの文脈で理解できる。 生があるから滅がある(逆も真なり)、垢がなければ浄もない(逆も真なり)、増と減は相互に依存して実在する、ということである。

非我でないがゆえに無常でもないもの(=永久不変の普遍的真理)は、たとえ存在すると仮定しても人間には認識不能である。 無常でなくて非我であるもの(それ自体に実体はないが決して変化しないもの)は、想定不可能である。 無常であって非我でないもの(常に変化するがそれ自体に実体があるもの)は、釈尊によれば輪廻転生する魂以外には存在し得ない。非我であり且つ無常であるもの、すなわち「空」という相互依存の状態にあるものだけが、実在しているといえる。

「縁起」=関係によって起こるものは、その時その場かぎりという「条件付き」である。関係がなくなれば実在もなくなる。「地縁関係」により存在する村落共同体は、住人が出て行けば消滅する。家族は「血縁関係」によって存在するが、血の繋がりがなければただの他人である。「金縁関係」により存在する友人は、金の切れ目が縁の切れ目となる。物質世界も精神世界も、そのように「縁」によって仮に存在しているに過ぎない(仮和合)、と釈尊は説く。それが「空」である。

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