思うところがあり、狩猟免許を取得しました。なぜ私が狩猟という名の殺生をするのか。それは、自然の命について、命をつなぐために命を奪うとはどういうことかについて、真剣に考え、自分なりの答えを模索するためです。

「狩猟」とは「法定猟法により狩猟鳥獣を捕獲又は殺傷すること」です(鳥獣保護管理法第2条8項) 。登録狩猟と住宅敷地内猟の一部と許可捕獲の一部が「狩猟」に該当します。対象である狩猟鳥獣48種は、いずれも十分な個体数があり、増え過ぎるとかえって病気の蔓延等により地域的に全滅する危険もあることから、適切な個体数に調整・維持するべく、その命を個人的趣味である狩猟で奪うことも適法である、というのが猟友会の考え方のようです。要するに、命をつなぐために命を奪うことが正当化される、というわけです。

また、自らの命をつなぐためであれば他の命を奪うことも正当化される、という考え方もあります。正当防衛や緊急避難による殺人は違法性が阻却され無罪となります。生態系においてもすべての命は他の命の犠牲の上にあります。私は菜食主義者ではありません。肉も魚も食べます。スーパーに並んでいる牛肉も切り身も、だれかがどこかで命を奪った動物の死体の一部であることに変わりはありません。これらを平気で食する以上、それは動物の殺生を肯定することと同じです。私たちは自らの命のために他の命を頂くことを避けられないのであり、それは言い逃れの出来ない事実です。では、食物連鎖の頂点にいる人間は、命の価値として他の動物よりも上なのでしょうか。本来、命に上下差別はないはずです。

また、食べないまでも、私たちは害虫を殺したり害獣を駆除したりします。命に上下差別がないのであれば、行為としては狩猟で狩猟鳥獣の命を奪うことと同じであるはずです。

命のために命を奪う、これは矛盾していないのか。食べもしないのに命だけを奪う、それは許されるのか。まだ答えは出せていません。自問する日々です。

このブログでは、「狩猟」に関する話題を切り口に、自然と命の問題について発信していきます。