世は終活ブームです。
「終活」とは、平成21年に週刊朝日が造った言葉で、当初は葬儀や墓など人生の終焉に向けての事前準備のことでしたが、現在では人生のエンディングを考えることを通じて自分を見つめ、「今」をよりよく自分らしく生きる活動のことだそうです。もっとも、「未来の死」から逆算した「今を生きる」という意味では、同じことでしょう。
それはそれで結構な生き方と思いますが、あたかも実体として「今の生」と「未来の死」があり、「生」の先に「死」が待ち構えていて、「生」と「死」が相反することを前提としているなら、錯覚であるといわざるを得ません。

「生」も「死」も、「今」も「未来」も、単なる言葉であって実体ではありません。その意味では「生」も「死」も存在しません。自分の頭の中にしかないなのです。 過去の後悔も将来の不安も同じです。自分が頭の中で勝手に作り出した妄想である、といっても過言ではありません。さらには、この自分自身さえも同じことです。「自分」や「私」というものも、単なる言葉であって実体ではなく、従って存在しません。

このように、「自分」や「私」という言葉から実体性を剥ぎ取り、実在しないことを身をもって体感しようとするのが「禅」という生き方です。「禅活」とは私の造語ですが、これを日々の生活の中で実践することが「禅活」であり、そのような禅のある生活を提唱しています。

そもそも仏教は、不変固定の「自分」というものが実は存在しない、思い込みに過ぎないことを見破る教えです。お釈迦様は約2500年前、この事実に「気付いた」のであって、仏教という「教えを創り出した」わけではありません。その意味で、仏教は一般に定義されるところの宗教ではない、ともいえます。
仏教では、悩み苦しみの原因は外ではなく「自分」にあり、むしろ悩み苦しんでいる「自分」の方を解体すれば自ずから安心が得られる、と説いています。このお釈迦様の教えを坐禅などの実践体験により今日まで忠実に伝えてきたのが曹洞宗や臨済宗などの禅宗です。

このブログでは、「禅活」に関連する話題を切り口として、 お釈迦様が直接説いたとされる教えと、禅宗それも日本曹洞宗の創始者である道元禅師自身が語った教えにできるだけ忠実に、 命と心の問題について発信していきたいと思います。