悟りとは「無我」の体感である(仮説2)

あなたは、我=自分というものが本当にあると信じているだろうか?実は、自分というものはないのに、あると思い込んでいるだけだと言われたら、どう思うか?哲学ではデカルトのコギト命題「我思う、故に我あり」が有名だが、仏教に言わせれば「我思うは単なる我の思い込みであり、故に我なし(無我)」ということになるだろう。我々人間は、自分自身の体を含め、外界の事実を五感の作用によって認識している。

例えばウグイスが鳴いたとする。でも、どうしてウグイスが鳴いたと判るのか?ホーホケキョと確かに聞こえた(感覚器官による感受=「受」)。過去の経験で、鳥というものを知っている、ウグイスという鳥がいて、ホーホケキョと鳴くことを記憶しているから、そのことを思い出した(記憶による想起=「想」)。事実としては音がしただけのことだ。なので、まだ鳥というものを知らない赤ん坊は、ホーホケキョという音は聞こえても、その事実を受け入れて終わりになる。しかし、大人は、過去の記憶という引き出しから、ウグイスの鳴き声という可能性を瞬時に呼び起こし、ホーホケキョと鳴くのはウグイスであると判断する(同一性の認識=「識」)。

これらの認識作用は、すべて自我、すなわち自分と自分以外のものを分け隔てする、自他分別意識がなせるわざである。この意識が、この身が自分である、自分というものがある、すなわち我ありと勝手に思わせているだけである。本当は、この身は単なる物質であり、縁あって現在は人間の状態をしているだけであって、自分という固定不変の実体があるわけではない。肉の塊、ロボットと同じ、客観的には、そもそも自分なんてものはないのである。「我思うは思い込みであり、もとより我なし」、これを「無我」というのであろう。「非我」と言った方が正確かもしれない。物心つく前の子供には、この自我がない。なので常に自然の事象と一体となる。ところが、大人になるにつれ、いろいろな経験を積み、自我というものが発達してくると、あれやこれやと自然の事象に勝手に意味づけをし、色眼鏡を通して見るようになり、かえって現実が見えなくなる。この身を自分であると思い込み、自分というものに執着することで起きる現象である。自分というものは自他分別意識=自我意識が勝手に作り上げた幻影であることに気付けば、ほんらい自分という実体はないこと、すなわち「無我」であることに気付けると思う。それが「無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。」であり、「五蘊皆空」と同義であろう。

このことを実践により体得するのが坐禅である。坐禅をする動機は各々あってよいが、目的があってはならないと言われている。今の自分とは違う何か新しい自分になるための手段ではないからだ。何かを得るのではなく、むしろ捨てていく作業だからだ。自我を捨てていくことで今の本当の自分を顕わにする作業であり、正しい坐禅をすれば目的意識を持たずとも自動操縦のようにして本来無我であった境地を取り戻すことができるようだ。いわば、坐禅をすること自体が目的であり、坐禅をしている姿そのものが既に目的地に居ることになる(修証一如)。また、坐禅は瞑想とは異なる。というか正反対である。瞑想とは「目を瞑って想いを巡らすこと」であるが、坐禅は「止観」、つまり「想いを止めて事実をありのままに観ずること」である。目を開き、耳を澄ませて、入ってくる圧倒的な事実に心のフィルターを通さず、自我という名のバリアーを取り払って感受できるようになるための修行なのだ。そうすることで思考を止め、無我の境地に至れば、物質に過ぎないこの身は宇宙と同化し、一体となる(同事)。このことを頭で理解するのではなく体感することが「悟り」ではないだろうか。

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