クジライルカ漁と殺生

和歌山県太地町で古来より行われているイルカ追い込み漁について、捕鯨と同様に、未開・残虐であるとして、主としてキリスト教圏の人々より強い非難が続いている。これに対し、和歌山県は伝統文化擁護の声明を発表し、また中立的立場で和解の糸口を探る試みも多々ある。しかし、私は、この問題の根底には、キリスト教圏と仏教圏の宗教的価値観の違いがあり、これを互いに認め合うことが相互理解の第一歩となるのではないかと思う。

もちろん、現代日本人の多くは、本来の意味で仏教に帰依しているわけではないが、仏教伝来いらい1500年の歴史の中で、仏教的価値観が日本人のDNAに刻み込まれていることは否定できないように思う。その最たるものが「人間を含む全ての命は平等であり、他の生物の命の恵みを頂いて自分たちの命を維持していることに感謝する」という意識であろう。これに対し、西洋のキリスト教的価値観の下では「人間は神が創造した特別な存在であり、人間の食糧として神が創造してくださった牛豚は別として、人間に近い知能の高等哺乳類(クジラやイルカなど)を殺して食べるなどもってのほか」ということになろう。

そのため、すべての命は本来平等であると考える日本人にとっては「なぜクジラやイルカはダメで、牛や豚は殺して食べてもよいのか、おおいに矛盾しているではないか」という当然の疑問となり、西洋人にとっては「そもそもクジラ・イルカと牛豚を同列に扱うこと自体がおかしい」ということになって、議論がかみ合わない。キリスト教の熱心な信者には、人間がサルから進化したという事実さえ頑なに否定する人さえいる。彼らにとって人間は神が創造した特別な存在であるが、この人間優位の考え方は、仏教的価値観においては「人間の思い上がり」と映る。もともと人間は他の命を頂かなくては生命を維持できない罪深い存在であり、感謝して頂く命にクジラ・イルカも牛豚も差別はないはずだと感じるからであろう。しかも日本人には、針供養などに見られるように、生物のみならず世話になった道具を含め万物に報恩と感謝の念を抱くというアニミズム的な考え方が根底にある。

いくら伝統文化だとか、はるか昔から食べてきたとか、日本以外にもクジラやイルカを捕っている国があるじゃないか、という主張をしても、キリスト教圏の人々に対しては説得力はない。彼らが根ざしているキリスト教的価値観をまったく理解していないからだ。

最近、水産庁が出した、捕鯨反対派に対する次の回答に、「ぐうの音も出ない」とか「まさにそれ」という賞賛の声が国内から多数寄せられているとのことだが、まさに自己満足の極み、まったくの的外れである。
「クジラに限らず、すべての動物が特別なものです。すべての動物がかけがえのない生命を持ち、食う食われるの関係で生態系の中での役割を果たしています。もちろん、人間もこの生態系の一部です。他方、人間は様々な民族や国民が様々な生き物に特別の地位を与えています。例えば、多くの国で食料とみなされる牛も、インドでは神聖な動物です。ある民族や国民が自らの特定の動物に対する価値観を他の民族や国民に押しつける行為は許されるべきではありません。これは、クジラについても同様です。全ての生物を客観的に理解することが必要です。」

キリスト教圏の捕鯨反対派に言わせれば、そんなことは知っていると一蹴されるであろう。インドで牛が神聖な動物であるのと同様に、 彼らにとって人間に近い知能の高等哺乳類(クジラやイルカなど) は神の領域の生物なのだ。インドで牛を殺すのと同じ行為だと彼らは言っているのである。それを価値観の「押しつけ」であるなどと決めつけている時点で、先方の価値観や価値観の多様性自体を認めていないことになる。

仏教徒である私は、クジラ・イルカだけが特別な動物であるなどとはまったく思わない。クジラを殺して食べることについても、感謝以外に何の感情もない。ただ、自分たちの国の庭先である南氷洋で愛するクジラを日本人が捕獲することを快く思わないオーストラリアやニュージーランドの人々がいることも事実である。それは、小笠原近海で中国漁船が 宝石サンゴを 根こそぎ捕獲することを日本人が快く思わないのとまったく同じである。また、いまだに韓国の市場で生きた犬とその食肉が販売されていることに違和感を感じない日本人がいるだろうか。

もちろん、日本にまで乗り込んできてイルカ漁を妨害する過激な連中は論外であるが、クジラ・イルカを殺してほしくないという、我々と価値観の違う人々に対して我々は、もう少し謙虚になれないのか。

この問題は、真の国益は何かという視点で考えれば、答えはおのずと明らかであると思う。クジラ・イルカを食べることが国益なのか、それとも国際社会の一員として西洋からも信用される国であることが国益なのか。この飽食の時代にあって、それでもクジラ・イルカを捕って食べたいというごく一部の日本人に迎合することが、国際捕鯨委員会からの脱退を正当化するほど重要なのか? 調査捕鯨に名を借りた商業捕鯨であるとの国際司法裁判所の当たり前の判断に従わないことで、日本は国際ルールを守らない国であるとのレッテルを貼られることは国益に反しないのか? 将来、隣国との領土紛争を国際司法裁判所に持ち込んだとき、その帰趨に悪影響を及ぼすことはないのか? 何が真の国益か、よく考えてみる必要がある。クジラを食べたいばかりに我が国固有の領土を失っては元も子もないであろう。

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