諸行無常(しょぎょうむじょう)

色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ

「諸行無常」は、すべての物事は決して留まることなく変化し続ける、ということである。
それだけの意味である。三法印(四法印)の中では最も理解し易い教えであろう。
花はいつしか散り、盛者も長い目で見れば没落し、生はいつか終わる。誰でも知っている、それだけのことであるが、それでも仏教の教説として意味があるのは、ともすれば人は、今日と同じ明日があるという根拠のない希望的観測を抱き、永遠に変わらないものを希求してやまないからであろう。
人は、形あるものがいつか壊れることを忘れて後生大事にし、 若いころは永遠の命があるかのように思えて時間を浪費しがちである。しかし、今日と同じ明日があると思うのは「無明」(むみょう)=錯覚であり、永遠に変わらないものに執着するのは「煩悩」である。太陽の寿命はあと50憶年くらいと計算されているらしいが、太陽が今日爆発するのを科学的知見が止めることはできない。今日と同じ明日どころか、明日が来ること自体さえ保証されていない、と敢えて戒めるのがこの「諸行無常」である。

ここで重要なのは、変化するというのは、変化しない同じものについての時間差でしかいえないということである。桜の木という同じものについていうから、満開の状態から時間差で葉桜の状態に変化したといえるのである。梅の木との間では変化は認識できない(家の庭木の植え替えについていうなら梅の木に変化したとはいえる)。同じ平家についていうから、おごれる状態から久しからず衰えた状態に変化したと認識できるのである。源氏との間では変化したとはいわない(時代の覇者についていうなら源氏に変化したとはいえる)。このように、前提として変化しないものを想定しない限り、何も変化しない。

人間についても同じである。今日も明日も明後日も同じ自分であるという前提で、自分について時間差で分析するから、自分に老病死という変化が起こると認識するのである。

要するに、「諸行無常」は時間概念を前提としており、変化しないものについてしかいえない。それではいいたいことの説明としては片手落ちであり、さらに時間を捨象した空間概念においても絶対不滅のものはない、といえて初めていいたいことの説明になる。それが「諸法非我」の問題である。その意味で「諸行無常」と「諸法非我」の教説はワンセットなのである。
なお、「諸行無常」に必要以上の内容を盛る向きもあるが(特に、無常=非我であって同じことをいっている、かのような)、字義どおり世界はノンストップ・チェンジングであるという意味に解釈して一向にかまわない。釈尊が「諸行無常」と「諸法非我」を別の言葉として教示している以上、別の意味に解するのが釈尊の教え(仏法)に適合した解釈(合仏限定解釈)というものであって、これらを勝手に混用すべきではないであろう。

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