只管打坐(しかんたざ)

坐ること自体が目的でなければならない

日本曹洞宗の始祖、道元禅師の教えである。
「無」や「悟り」の境地など何かを希求しながら坐るのではない、ただ坐る、という意味である。

もっとも、坐禅を始めるにあたり動機があってはならない、というわけではない。考えてみれば当たり前である。体験すればわかるが、わざわざ不自然きわまる窮屈な姿勢をとり、目を開き息を整え、数十分間も無言で座ろうというのであるから、そのような非日常的行為を敢えてしようとする際に、動機がないわけがない。気が付いたら家のソファーに座ってくつろいでいた、というのとは違うのである。従って、たとえばヒーリング・集中力の向上・アンガーマネジメントなどを動機として坐禅を始めること自体は、一向に構わない。

ただし、 ただ坐る、というのは、坐禅をするのに動機はあっても構わないが、座る以外に目的があってはならない、ということである。つまり、坐禅を何か別の目的のための「手段」にしてはいけないのである。坐禅に限らず、作務・読経その他あらゆる禅の修行に不可欠なのは、その行為自体を目的とし、その行為自体になりきることである。これらの行為を手段とした瞬間に、将来に何か別の見返りを求めることになってしまい、今ここ以外に逃げ場を設けることなって、修行の意味がなくなるからである。従い、禅の修行として坐る以上は、坐ること自体が「目的」でなければならない。有名な「磨瓦作鏡」(ませんさきょう)の問答は、そのことをいうのである。

「坐禅」とは、思考を停止することにより自意識を解体する修行である。
我々は、物心ついてからというもの、経験を積み重ねるうちに、経験の中から主体と客体を分離し、この身を自分自身と思い込み、自分の所有物があると思い込み、自分という固定不変の実体があると思い込んで不安・不満の日常を送っている。それらの錯覚はすべて自意識のなせるわざであり、この自意識が自分の思い通りにしたいという煩悩を生み、思い通りにならないという悩み苦しみの元となる。従い、その元凶である自意識を解体し、もともと自意識がなかった物心つく前の状態(主客一元)に立ち返ることが坐禅の結果である。

しかしながら、そのような結果でさえも、目的としてしまえば、坐禅には不要であるどころか有害ですらある。結果として自意識が解体されるのが坐禅であるのに、それを求めてしまうと逆に自意識が昂進されてしまい、かえって自意識の解体から遠ざかってしまうからである。当然、思考を停止(不思量)しようとしてもいけない。思考を停止しようとすること自体が思考であり目的であるからである(不思量底を思量す)。不思量という思量を含め、一切の思考が停止された状態(非思量)に至れば、自意識は自ずと解体される方向に進むのだ。 これが只管打坐の教えである。

そうすると坐禅の心得は、まさに次の道元禅師の言葉に現れているであろう。
「 ただ、わが身をも心も放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これに従いもて行く時、力をも入れず、心も費やさずして、生死を離れ仏となるなり」

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