一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)

ある雨の日、遠くの山を見ていた。
確かに、山が見えている。雨音も、確かに聞こえている。
ふと疑問に思った。でも、この光景を見ているのが私であると、この音を聞いているのが私であると、どうしていえるのだろうか?だって、山を見ている私が見えているわけでも、雨音を聞いている私が見えているわけでもないのに。

デカルトは、「私」の存在を疑ってもその存在を「疑う私」が立ち現れ、その「私の存在を疑う私」の存在を疑ってもやはりその「私の存在を疑う私の存在を疑う私」が立ち現れることから、どこまで行っても「疑う私」の存在だけは疑い切れないとして「我思う、ゆえに我あり」とした。これに対し、「我思う」は確かであってもそこから「我あり」は導けないのではないかと西洋哲学は批判する。東洋哲学ではそもそも「我思う」自体に懐疑が向けられる。思っているのが「我」であるとどうしていえるのか、思っているのが「我」であると思い込んでいるだけではないか、そこには「思い」しかないのではないか、という疑問である。

観念的には、「私」は認識主体であって、決して認識対象とはならない。
認識主体が認識できるものは「客体」すなわち認識主体以外であり、認識主体は認識主体自身を客体として認識することはできない。何故なら、認識主体Aを客体として認識するためにはAとは別の認識主体Bを仮定せざるを得ず、その別の認識主体Bを客体として認識するためにはそのBとも別の認識主体Cを仮定せざるを得ないのであって、認識主体が無限に遡及し、永遠に定まらないからである。

従って、私が自分で自身を認識することは決してできない。厳密にいえば、現在の私は現在の私の認識対象とはならないのである。逆に言えば、認識できると思うような自分とは、せいぜいが一秒前の過去の記憶下の自分であるか、またはせいぜいが一秒後の将来の想像上の自分であるか、はたまた自我意識が生み出した他者としての私であるに過ぎない。他者としての私とは、他者の目から見た自分という、自身の想像の産物である。実際に他者の目から自分を見ることはできないのであるから、思い込みであることは明らかである。いずれにせよ、そのような架空の自分に執着することで悩み苦しみを自ら生み出す愚かさを釈尊は戒めているのである。ここが仏教の要諦である。

しかるに、世人は自分の皮膚の内側にあるのが私であると勘違いし、その外側の世界は私ではないと勝手に決めつけ、「私が世界を認識している」という主客二元の対立構図から離れられないでいる。この誤った世界観の中で、私が他者を認識するように、過去または将来の自分像や他者としての自分像を私であるかのように錯覚しているに過ぎないのである。そこに登場する世界の中の私は、それをリアルタイムで認識している主体としての私(本当の自分)ではない。

そもそも皮膚の内側と外側に区別などない。空気・水・栄養を摂取し排出ている人体は開放系のシステムであり、人体と世界は連続し、その間には何の境界もないのである。すべては世界であり、すべては自分であるともいえる。

しかし、この世界がよりによって私自身の世界として開けており(天上天下唯我独尊)、他でもない私自身の意識の上にありありとした質感(クオリア)を伴って眼前している事実もまた疑いようがない。私自身は何の属性も帯びていないが(本来無一物)、山が見え、雨音が聞こえ、花が香り、果実を味わい、陽ざしの温もりを感じる。この世界がこのような現象に満ち溢れていること自体は紛れもない真実である(無一物中無尽蔵)。

では、本当の私は一体どこにいて、一体どこからこの世界を見ているのか?

もちろん私の頭の中からではない。脳の中に私の視点を置けば、その脳自体はどこにあるのか、誰がどこから脳を見ているのかという問題が生じ、上記と同じ無限遡及に陥るからである。

この世界を映画に例えれば、本当の自分とは「私の一生」という題名の映画を観ている観客である。映画の中の登場人物が観客を認識できないのと同じように、この世界の中に生きる私はこの世界の中にいない本当の私を認識できない。

私とは何か。それは決して認識できないものである。
認識できないものを言葉で言い表せるわけもない。けだし、本当の私は、自分自身には決して認識できない以上、無いも同然だからである。私とは何ものでもないもの、すなわち無というほかない。これを無我という。

しかるに我々は、自我意識の働きにより、自分自身を認識していると思い込んでいる。
坐禅は、認識できるような私は錯覚であり、本当の自分などどこにも見いだせないのであって、もともと無我であったことを悟るための修行である。坐禅の究極目的はただこの一点に絞られる。
坐禅により、主客二元の対立構図を生み出す思考を止め、自我意識のフィルターを解体すれば、そこには事実のみの世界が広がる。山を見ればそこには山しかなく、雨音を聞けばそこには雨音しかない。自分が山となり、自分が雨音となる世界である。

これを道元禅師いわく、一切が衆生、悉有が仏性なのである。主客一元、梵我一如、無我の境地である。

 仏道を習うというは、自己を習うなり
 自己を習うというは、自己を忘るるなり
 自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり
 万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

ここでいう「自己」とは主観視点から見た自分自身すなわち自我(自己認識)、「他己」とは客観視点から見た他者としての自分(他己認識)という意味である。自我(自己認識)は1歳後半くらいに獲得されるのに対し、他者の目から見た自分という意識(他己認識)は人の目を気にし始める思春期に強まるが、どちらも自分自身を認識対象としている点で錯覚である。

道元禅師の言葉を現代語訳すれば、仏道修行は「自分とは何者か」を明らかにすること(己事究明)であり、それは自我意識を没却することであり、それは自己が大自然であり大自然が自己であると悟ることであり、悟ることとは自我意識も他者としての自分も解体させることである、となろう。

釈尊自身も、苦しみの基盤は「自分」という家であり、家の作り手を見破れば垂木は折れ棟木は崩れて二度と苦しみは生まれない、という真理の言葉を残している(ダンマパダ153-154)。自分を解体するという、同じことを表現していることは明らかである。

 そもそも主観は客観世界に位置付けられた概念である。世界は「主客二元」ではなく「主客一元」であり、すべては客であるともいえるし、すべては主であるともいえる。すべてが客ならば主はないし、すべてが主ならば主は無意味となる。すなわち、「自己」も「他己」もともに悟りによって脱落されるべき架空の私であり、そうして脱落された後に残るものが本当の私、すなわち無である、というのである。

私をドーナツに例えると、私の視点をドーナツの穴においたとき見えるものが「自己」、私の視点をドーナツの外側においたとき見えるものが「他己」、そして穴自体が本当の私という関係になる。穴がなければドーナツは成り立たないが、穴それ自体は無であるというほかないのである。  

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