一切行苦(いっさいぎょうく)

仏教の核心的教説は、「一切行苦」「諸行無常」「諸法非我」「涅槃寂静」の4つである。これを「四法印」(しほういん)という。 「一切行苦」を除いて「三法印」(さんぼういん)ということもある。それぞれの関係としては、人が「一切行苦」であるのは「諸行無常」「諸法非我」であることに気付いていない(無明)からであり、これらに気付いた後は「涅槃寂静」の境地に至ることができる、というものである。釈尊が体験して悟り、教え、自らも実践した仏法(ダルマ)である。

今から約2500年前、ネパールのルンビニーという地で、釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、裕福な暮らしに恵まれて何不自由なく育ったが、ある日東門から出てみると老人が、南門から出てみると病人が、西門から出てみると死人がいて、人生の問題に深く苦悩し、ついに29歳で出家して6年の修行の後、ブッダガヤーの地で悟りを開いて仏陀(真理に目覚めた者)となったとされる、実在とされる人物である。その敬称が釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、その略称が釈尊である。

このように、釈尊の教えの出発点は「一切行苦」(いっさいぎょうく)である。人生は「生老病死」(しょうろうびょうし)の過程であり、人生とは苦そのものである、という意味である。この「生老病死」を四苦(しく)という。

この四苦でいう「生」とは誕生のことである。「老病死」が苦であることはわかるが、なぜ「生」=誕生というめでたい事態が苦なのか。それは、生まれなければ老いず、生まれなければ病まず、生まれなければ死ぬこともないからである。すなわち、生まれなければ苦を味わうこともないから、生まれること自体が苦の始まりというわけである。

しかも、望んでもいないのに勝手に産み落とされ、知らないうちに名前を付けられ、おかまいなしに自分という服を着せられて、何一つ選べない状態で人生をスタートさせられるのであるから、本来、誕生が苦ではないはずがないのである。

なお、四苦のうちの「生」を誕生ではなく生きる(人生)と解釈する向きもあるが、論理的に成り立たない。四苦=人生なのであり、「生」を人生と解釈すると人生+三苦=人生というトートロジー(循環論法)に陥ってしまうからである。

「生老病死」の四苦に、求不得苦(ぐふとくく)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えて、八苦(はっく)という。求不得苦(ぐふとっく)は欲しいのに手に入らない、 愛別離苦(あいべつりく)は愛するものを失ってしまう、怨憎会苦(おんぞうえく)は逆に嫌なものから逃れられない、五蘊盛苦(ごうんじょうく) は自らの心身に執着してしまうことをいう。 一言でいえば「自分の思い通りにならない」という苦のことである。

生まれるかどうか、老いるかどうか、病になるかどうかも、自分で決められるなら苦にはならない。自分で決められないから苦となるのである。要するに、釈尊のいう苦とは、自己決定できないことの苦しみをいうのだ。

では死ぬかどうかは自分で決められるか。生(せい)の否定という意味ではできるが(自殺)、死の否定という意味ではできない。やはり、死も自己決定の埒外にある苦ということになる。

すると「四苦八苦」とは自分の思い通りにならないこと、と言い換えることができる。18世紀の哲学者ジャン・ジャック・ルソーは、「不幸」とは欲望と能力のギャップである、と苦の本質を洞察した。その2000年以上も前に同じことを釈尊は見抜いていたのである。

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