涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)は、すべての「煩悩」の炎が吹き消された完全に安らかな境地という意味で、仏教における最終到達点とされる。釈尊は80歳のときクシナガラの地でこの境地に至ったとされている。

この境地を「悟り」と同様のものと捉える向きもあるが、釈尊が「悟り」を開いたのは35歳のときのこととされているから、時点がまったく異なる以上、同じものであるはずがない。では「悟り」と「涅槃寂静」は何がどう違うのか。当たり前であるが「悟り」の定義による。「悟り」とは、悟るという動詞の名詞形であるから、何かを発見すること、という意味になる。

思うに、「悟り」とは、すべての物事が「諸行無常」かつ「諸法非我」であることの発見である。もちろん人についても当てはまる。というより、すべての物事が「無常」で「非我」であることを自己の心身によって発見したとき、それが悟りであろう。ただし、絶対的超越性を認めない仏教においては、いわゆる唯一無二の「真理」などと呼ぶべきものではない。ましてや、天変地異のごとき精神変性ではない。悟ったことで、 自分の思い通りにならない苦しみがなくなり、せいぜい「一切行苦」が解決するだけであろう。「苦痛」までもがなくなるわけではない。実際に、釈尊は腹痛に苦しみながら亡くなったとされる。

早い話が、悟った後も生きている限り「煩悩」の炎は完全には消えない、ということになろう。「悟上得悟」「大悟徹底」という言葉がある。悟った上での悟り、つまり悟りには完全はなく、悟りを目指す修行にも完成はないのであり、死ぬまでが修行であって、そのような生き方(仏)のまま死ぬという境地が「涅槃寂静」である、と考えたい。

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