諸法非我(しょほうひが)

輪廻転生は仏教とは無縁である

つぎは「諸法非我」(しょほうひが)である。あらゆる物事には本質がない、という意味である。仏教における核心的教義であろう。三法印(四法印)の中では最も理解が難しい。

「本質」とは、実体と言い換えることもできる。「あるときは〇〇、またあるときは××、しかしてその実体は△△」というキャッチフレーズのとおり、時と場合によって〇〇や××に変化しても、常に変わらない△△が本質である。すなわち、本質は絶対性・固定性・自立性をもつ。

先に「諸行無常」でいう変化を認識できるのは変化しないものについてであると述べた。では 物質(モノ)や概念(ゴト)には本質はあるのか。これを否定するのが「諸法非我」の教えである。

古代インドではあらゆる物事にこの本質が存在するとして、これを「アートマン」と呼んだ。これを漢訳したものが「我」である。釈尊は当時のインド哲学の通説に反旗を翻して我の存在を否定し(無我)、そういう断定さえも否定して、「非我」を教説の中心に置いた。

「諸行無常」との混同を避けるため、時間を止めて考えてみよう。「今」に幅がなければ、物質(モノ)はストップモーションとなり、変化することは一切ない。そうすると、この瞬間の物質(モノ)には本質があるように思える。 例えば目の前にあるイスについて時間を止めて考える場合、イスというモノがそれ自身で独立して存在しているように思える。しかし、そのイスを分解し、いかに観察と実験を繰り返そうとも、その結果は人の感覚器官を通じた知覚作用をもって人が頭の中で認識するしかない。 原子を持ち出そうが素粒子を持ち出そうが、科学的知見はすべて人の「知見」に基づく推論でしかないからである。 真に客観世界が実在するかどうかは人間には決してわからないことなのだ。 とすると、そのイスがそれ自身で独立して存在していることの根拠となるもの、すなわちイスの本質=「我」の有無を人間が知ることはどだい無理な話である。釈尊が「非我」を説くのは当然といえよう。
なお念のため、ここで客観世界が実在しないと断言しているのではない。あるともないともわからない、人知が及ばないと断言しているだけである。ましてや、独我論的経験主義(意識一元論)のように、自分が知覚できる世界だけが実在しているといっているのではもちろんない。それでは、今ここで自分が経験できないもの(見えないもの聞こえないもの、例えば隣の部屋にあるもの)は存在しない、他人の頭の中には何も存在しないことになってしまうからである。 畢竟、自分以外の人間は皆ゾンビであるという主張であり、釈尊が説くわけがない。

人についていえば、さしずめ「我」とは=魂ということになろう。人が永久不滅の存在ならば、その本質として生まれる前から有り死んだ後も残る魂があることになる。このアイデアが物語性を帯びれば、魂が生まれ変わり死に変わりするところの輪廻(転生)説となり、解脱(救済)のアイデアと結びついて立派な「宗教」となる。しかし「非我」を説く釈尊は、魂の存在についてはあるともないとも断定せず、「無記」(むき)という判断保留の態度を貫いた。わかる方法がないのであるから、そういうしかない。従って、その意味での輪廻説(輪廻転生説)は釈尊自身の説くところではない。

なお、「非我」の議論において、「イス」というのは単なる言葉に過ぎないから実在しない、と説明する向きもあるが、名前(概念)だけで物質(モノ)として実在していることにならないのは当たり前で、自動車は部品の集合体につけた名前であるから自動車は実在しない、という安直な説明と同じである。また、細分化できるから実在しない、と説明する説もあるが(要素分割説)、自動車の部品もまた実在する構成要素の集合体であり、そのまた構成要素も原子にしようが素粒子にしようが実在するのは無限に同じことであるから、どこまで細分化してみても実在しない根拠は見いだせない。

そうではなく、そもそも相対的・流動的・相互依存的な存在である我々には、絶対性・固定性・自立性をもつ本質は認識できないから、端的に無い、というしかないのである。

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