諸行無常(しょぎょうむじょう)

「諸行無常」は、すべての物事は決して留まることなく変化し続ける、ということである。
それだけの意味である。「三法印」の中では最も理解し易いであろう。
花はいつしか散り、盛者は必ず没落し、人生はいつか終わる。誰でも知っている、それだけのことであるが、それでも仏教の教説として意味があるのは、ともすれば人は、永遠に変わらないものを希求してやまないからであろう。
人は、形あるものがいつか壊れることさえ忘れて後生大事にし、 若いころは永遠の命があるかのように思えて不摂生する。それが錯覚であることを敢えて戒めるのがこの「諸行無常」である。

ここで重要なのは、物事が変化するということは、同じものについての時間差でしかいえないということである。桜の木という同じものについていうから、満開の状態から時間差で葉桜の状態に変化したといえるのであり、梅の木との間では変化は認識できない(家の庭木の植え替えについていうなら梅の木に変化したとはいえる)。同じ平家についていうから、おごれる状態から久しからず衰えた状態に変化したと認識できるのであり、源氏との間では変化したとはいわない(時代の覇者についていうなら源氏に変化したとはいえる)。このように、前提として変化しないものを想定しない限り、何も変化しない。

人間についても同じである。ずっと変わらない同じ自分という設定で、同じ自分を時間差で分析するから、自分に老病死という変化が起こると認識するのである。

では、その変わらないもの、というのは本当に存在するのか。それが「諸法非我」の問題である。なお、「諸行無常」に必要以上の意味内容を盛る向きもあるが(特に、無常=非我であって同じことをいっている、かのような)、釈尊が「諸行無常」と「諸法非我」を別の言葉として教示している以上、別の意味に解するのが釈尊の教え(仏法)に適合した解釈(合仏限定解釈)というものであって、これらを勝手に混用すべきではないであろう。

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