悟りとは臨死体験である(仮説3)

あなたは、自分の意思で眠りにつくことができるだろうか?おそらく、できるという人はいないと思う。眠りとは落ちるものであって、自分の意思で眠ることはできないはずだ。意思的に眠ろう眠ろうとすればするほど、かえって眠れなくなる。眠りに落ちるための条件(明かりを消し、横になり、眼を閉じ、リラックスするなど)を整え、眠りの方からやってくるのを待つしかない。悟りについても、同じことがいえるのではないか。悟ろう悟ろうとすると、かえって悟りは遠ざかるもののようだ。常日頃から悟るための条件を整えて、悟りの方からやってくるのを待つしかないだろう。

これまで、悟りとは「空」の体感であるという仮説を立て、この身を含め、この世の万物・森羅万象は単に因と縁の関係性によって偶然かつ必然に成り立っているに過ぎず、実体としては有るともいえるし無いともいえる(色即是空、空即是色。本来無一物、無一物中無尽蔵。)ことを体感したとする。また、悟りとは「無我」の体感であるという仮説を立て、自他分別意識=自我意識=自分に対する執着心からこの身を私のものであるように思い込んでいるだけで、もともと実体としては「わたし」というものなど存在していない(五蘊皆空=無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。)ことを体感したとする。そうすると、そのような悟りの境地とは結局、死後の世界と同義であるように思われる。人は死ねば、当然ながら執着する心も我が身も無くなり(無我)、生まれる前の、有るともいえるし無いともいえる世界(空)に帰って行くであろうことは何となく理解できるからだ。

悟りに達したと思われる方(自分が悟りに達していないので、こう表現するしかない)の中にも、もう何もかも捨てて、本気で死んでもいいと思ったときに、自分がいなくなったような感覚がした、と表現される方がいる。そうすると、生きている(はずの)今現在、幻に等しいこの世の「空」を体感し、執着を捨てて「無我」を体感できたと仮定すれば、それは結局、生きながらにして死後の世界を体感することとイコールではないだろうか?いわゆる「臨死体験」といってもよいかもしれない。仏道とは自分を忘れて生きることと見つけたり。このことを頭で理解するのではなく体感することが「悟り」ではないだろうか。悟りとは、生きているうちに臨死の境地を体験し、生きていても死んでいても本質的には何も変わらないこと、すなわち生と死は究極において同質であり、生死は超越できることを体感することではないだろうか(不生不滅)。この境地に究極の大安心が生まれるように思う。

余命宣告を受けた方の中にこそ、大安心の境地を得て、命を輝かせて毎日を過ごしておられる方が大勢いる。過去の後悔や将来の不安などとは無縁に、今この一瞬一瞬を最高に生きておられる。余命宣告を受けようが受けまいが、生まれた瞬間から一秒の遅延もなくいつか必ず迎える死の瞬間に向かって人生を過ごしているのは誰しも同じでことだ。それなのに、過去の後悔や将来の不安など、頭の中にしか存在しないことにとらわれて今を生きていないとすれば、あまりにもったいないといわざるを得ない。自分という幻想を捨てていく作業。それが坐禅修行である。私も、この大安心の境地を目指して日々の禅に励みたいと思う。最後に、自問自答。「死んだらどうなりますか?」「生まれる前に戻るだけ。自分はいなかったが命はあったのだ。生まれたからといって命が自分ものになったわけではない。もともと自分の命ではないのだから、死んでも何も変わらない。安心して今を生きよ。」

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