身心脱落(しんじんだつらく)

脱落身心

身心脱落(しんじんだつらく)は、道元禅師が中国で悟りを得た瞬間の体験を語ったものである。日本に帰国後、道元禅師が執筆した正法眼蔵にある次の一節が、その意味を説く鍵となる。

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふというは、自己をわするるなり。
 自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。
 萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

これを意訳すれば、次のとおりとなろう。
仏道修行は「自分とは何者か」を明らかにすることであり(己事究明)、
それは自我意識を没却することであり、
それは元来「主客一元」であること(梵我一如)を悟ることであり、
悟ることとは自我意識も他者としての自分も解体させることである。

そうすると、道元禅師が説く本当の「自己」とは、自分であると思っているものから肉体(身)と精神(心)を取り除いたあとに残るもの、ということになる。自分から肉体と精神という実体を取り除けば何も残らない、と考えるのが一般の感覚であろう。しかし、それは 思考することによって主客二元の世界を作り出し、自分という実体があると錯覚しているからにほかならない。仏道修行により自分を究明し、それが錯覚であることに気付いて我執から解き放たれれば、そこに森羅万象と自分とは何の違いもない(梵我一如)、 「天上天下唯我独尊」 の世界が開かれるのであって、その状態を道元禅師は「悟り」というのである(万法すすみて自己を修証するはさとりなり )。

では、どうやって自分から肉体と精神を取り除くのか。有るものを無くするのではない。初めから無いのである(五蘊皆空、無色無受想行識)。つまり、初めから肉体や精神が固定不変の実体ではないことに気付くことが「身心脱落」である。そして、そうして気付いた「自分」がすなわち「脱落身心」である。逆説的であるが、「身心」を「脱落」させた後に残る「脱落身心」こそが本当の「自己」といえるのである。

では、どうやって初めから肉体や精神が自分のものではないことに気付くのか。それが只管打坐である。

では、只管打坐により、身心を脱落させ、森羅万象と一体となった後に見えるものは何か。 一切が衆生、悉有が仏性のありのままの世界である。道元禅師が詠んだ歌「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」は、そのような境地を謳ったものであろう。

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